2011年4月30日、ビデオニュース・ドットコムのマル激トーク・オン・ディマンドに、小出裕章氏が出演されています。これは、神保哲生と宮台真司の両氏が大阪は熊取の京大原子炉実験所を訪問し、小出氏にインタビューをしたものです。
http://www.videonews.com/on-demand/521530/001858.php
ビデオ・ニュース・ドットコム「小出裕章京都大学原子炉研究所助教」
概要
マル激トーク・オン・ディマンド 第524回(2011年04月30日)
5金スペシャル
原子力のこれまでとこれからを問う
ゲスト(PART1):小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教)
(PART2):河野太郎氏(衆院議員)、武田徹氏(ジャーナリスト)
(PART3):細野豪志氏(衆院議員、福島原発事故対策統合本部事務局長)
案内文(小出氏部分)
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5週目の金曜日に特別企画を無料放送でお届けする「5金スペシャル」。今回は福島第一原発の深刻な事態に直面し、「なぜわれわれは原子力をここまで推進してきたのか」、そして「これからわれわれはどうすべきか」を考える特別企画を、3部にわたってお送りする。
PART1は、震災以降ほぼ毎週、『ニュース・コメンタリー』で福島第一原発の最新状況を電話解説してきた京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏を、神保哲生・宮台真司が大阪・熊取の実験所に訪ねた。
「原子力は人類の未来を切り開く」と確信して原子炉工学を専攻した小出氏は、原子力を研究しその危険性を知った時から、原発に反対するようになった。しかし、「熊取6人組」と呼ばれる小出氏ら京都大学原子炉実験所の6名の研究者以外に、原子力の専門家の中で原発に反対する人は出てこなかったという。
37年間にわたり原子炉の研究を続け、原発の危険性について警告を発してきた小出氏にとって、このたびの福島原発の事故を防げなかったことは悔やんでも悔やみきれないできごとだったと言う。
1960年代、世界中が原子力の可能性に魅せられた時代から今日までの道程を振り返りながら、原子力の専門家がなぜ原発に反対してきたのか、その理由を聞いた。
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内容メモ
ブログSleepingCatsにて内容の書き起こしをされているので、以下、転載させていただきます。
Videonews.com:4/30更新「原子力のこれまでとこれからを問う」小出裕章氏インタビュー(1)
Videonews.com:4/30更新「原子力のこれまでとこれからを問う」小出裕章氏インタビュー(2)
Videonews.com:4/30更新「原子力のこれまでとこれからを問う」小出裕章氏インタビュー(3)
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出演:神保哲生氏。宮台真司氏
※誤字脱字、聞き間違え等ご了承下さい。
『原子力の専門家が原発に反対する理由』
神保氏:今日は4月27日水曜日。
水曜日の収録が異例であると同時に、
背景に小学校の教室みたいな黒板があるが、
ここ京都大学原子炉実験所にお邪魔し、
原発事故の週から毎週電話で福島原発の状況について伺って来た
小出裕章さんを訪ねた。
宮台さんは、小出さんに会うのは初めてか。
宮台氏:毎日放送の熊取6人組のドキュメンタリー以外では
拝見させて頂いた事はなかった。
神保氏:まさに研究されている原子炉の最悪の状態が
福島で起きていて、急がしい中1時間だけ時間を頂いたので、
早速本題に行きたい。
小出先生には、毎回今週の原子炉はどうなっているのか
という事で新しい状況についてコメントを頂いていたが、
今日はせっかく面と向かって話せるので、
もう少し大きな話をして頂きたい。
宮台氏:インターネット含め巷では所謂御用学者批判がそれなりに展開しているが、
アカデミズムが何故原発について、中立的情報を人々に伝える事に失敗してきたのか、
あるいはわざとしてこなかったのか。
人々が事故に対し、小出先生のような少数派の意見は別として、
アカデミズムから何も情報が得られない。
価値中立的という言葉があるが、何故アカデミズムが価値中立的で無かったのか、
小出先生のような立場の方が完全に周辺化されるような
価値コミットメントがないとあり得ないような扱いがまかり通るのか、
どういうふうにして、こうなってしまっているのか伺いたい。
神保氏:原子力の本質的な部分ですね。
早速話を伺って行く上で、小出先生の著書を皆さん呼んでいる訳ではないので、
基本的な入門的な所から(伺いたい)。
小出先生は、原子力の研究者でありながら、
原子力の問題点や危険性をメディアでも広く発言されているが、
そもそも何故原子力という学問を志したのか、
お話頂けるか。
小出氏:私は東京の下町(上野)で生まれ、下町で育った。
1960年代半ばに中学高校と下町で過ごした。
その当時、東京では広島・長崎の原爆展がしきりに開かれていた事だった。
私はその原爆展を見に行き、
原爆がとてつもなく酷い兵器だという事を心の片隅に刷り込んだ。
一方では、そんな凄まじい人殺しの兵器を作りだすエネルギーがある、
という事も理解した訳で、
丁度日本ではその頃、1966年に東海1号炉、日本初の原発が動き出す、
という事になり、日本中諸手を上げて(歓迎し)、
マスコミも、政府はもちろん、皆がこれからは原子力の時代だと思っていた。
70年になると、敦賀・美浜原発が動き出すという、
建設を進めている時だった。
私も、原爆のような形で原子力を使うのはけしからんが、
そのエネルギーを平和的に使えば、きっと人類のためになると思いこんだ。
それで、原子力をやりたいと思い、
大学に入る時に、工学部原子学工学科に入った。
宮台氏:少し補足すると、「思いこんだ」と言ったが、それは実は謙遜で、
1963年、東京オリンピックの前年に原子炉実験所が出来た。
あの頃、アニメーションで「鉄腕アトム」が始まり、妹はウラン、
同じ頃、原子力潜水艦スティングレイ(「海底大戦争 スティングレイ」)という人形劇、
その後サンダーバードの3号が原子力ロケットだった。
つまり、原子力は、未来を切り開く、単なるSFではなく、
すぐに手が届く明るい未来の象徴だった。
僕も小学校の作文では、「将来原子力を研究する学者になる」と書いた位で、
実は多感な人である程、そう思ったし、
僕が東大に入った頃も進路振り分けで、原子力は電気工学と並んで点が高かった。
神保氏:成績優秀な人が行った、と。
やはり「鉄腕アトム」を見た世代か。
小出氏:そうです。
神保氏:今の話で是非訊きたいのは、
原子力は夢のある新しいエネルギーだと当時は本当にそう思っていたのか、
その後、原子力はラッピングされ実態が見えない宣伝活動がなされ、
当時ここまで原子炉の危険性が解らなかったからか、
その時実はもう始まっていたのか(危険性を感じていた)。
小出氏:たぶん私が原子力に夢を持った60年代中頃は、
危険性に対する意識は殆ど無かった。
皆が夢を持って、原子力に突っ込んで行く、
それは日本だけではなく、米国もヨーロッパもそうであり、
60年代から70年代初めにかけては、
これからは原子力だと、世界中で原発がどんどん建設される、計画される、
そういう時代だった。
神保氏:ちょっと細かい話を聞くが、
素人的に見ても、原子力は核分裂や連鎖反応など、
それをコントロール出来なければ放射能が出る、という事は怖いな、と考えるが、
当時それが解らなかったというのは、
今振り返ると、考えていなかったのか、
メリットの方が大きかったから敢えて気を配らなかったのか、
何なのか。
小出氏:それは、今神保さんがおっしゃったように、
メリットが大きかったと思いこんでしまい、
デメリットに目が行かなかったという事だと思う。
神保氏:その時は、将来は原子力だ、という時代であり、それを志したが、
どうもこれは違ったぞとなった、その転機とは、どういうキッカケだったのか。
小出氏:私が大学に入ったのは1968年、東北大学の工学部原子力工学科に行った。
東北大学は、宮城県の仙台にあり、そこは東北地方で最大の都市だった。
そこで、私は原子力をやりたくて、原子力の勉強を始めた。
大学に入った時は、ひたすら勉強をしていた。
ちょうどその頃東北電力が原発を作る計画を立ち上げた。
計画した場所が、女川町という小さな町だった。
神保氏:今ありますね、原発が。
小出氏:今回津波で被害が出た町。
仙台で直線距離で60kmから70km程離れていたと思う。
仙台には、仙台火力発電所という大きな発電所があったが、
原発を女川に作ろうとした。
当時は、私を含め、日本中が諸手を上げて原子力という時代だったと、
先ほど聞いて頂いたが、
女川町の住民が何かおかしい事に気付き、
本当に少数の人だったが、反対だと言い出した。
神保氏:作る前の段階で。
小出氏:はい。
私は原子力に夢を抱いていた訳で、
初めは、何故女川の人達が反対をするのだろう、と思った。
所が、女川町の人達の言っている事は実に単純だった。
安全だと言うが、安全なら何故仙台に作らないのか、と。
私はその問いの答えを見つかなければいけない、と思った。
それで、どうしてだろうと探し求めた訳だが、
今となってしまえば。と実に当たり前の答えしかなかった。
要するに、原発は都会では引き受けられないリスクを持っている、
それだけだった。
でも、電気を使うのは都会の人達であり、
その都会の人達はリスクは引き受けたくない、と言って、
原発を所謂過疎地と言われる所の人達に押し付ける、という事をやろうとしている、
それが、探し求めて見つけた答えだった。
その答えを知ってしまった以上は、私にとっての選択はひとつしかなく、
これはとても認める事が出来ない、止めさせようと思った。
人生の選択を180度転換し、
原子力を止めさせる、という事に力を注ごうと思うようになった。
神保氏:68年東北大学入学、72年に学部を卒業、
その後74年から東北大学大学院の原子学工学専攻に行かれた、
それは大学院の時か。
小出氏:私が180度転換したのは、1970年の10月23日。
大学3年の時。
宮台氏:10月23日という日付を何故覚えているのか。
小出氏:その時に、女川の人達が第1回の反対集会を女川町でやった。
私はその集会に参加した、という日にち。
神保氏:その日が、小出先生にとっては、
ある種人生の転機になる訳ですね。
小出氏:そうです。
神保氏:ただ、その後原子学工学科をそのまま卒業し、
74年には大学院へ行き原子学工学専攻を続けた。
原発を止めさせるという決心をした後も原子力の学究を続けたというのは、
何故か。
小出氏:とても説明し難いが、私が大学に入った68年は、
大学闘争が始まった年。
東大の青医連(青年医師連合)というお医者さん達が始めた年で、
私はその時は、大学闘争が何なのか全く解らなかった。
ひたすら原子力をやりたかったので、他の学生達がいろいろやっている時に、
「何をやっているのだろう、勉強をしないのかな」位にしか思わなかったが、
女川の問題に突き当たり、自分のやろうとした原子力が何なのかという事を、
考えざるを得なくなった。
それは所謂アカデミズムと言われているものの一端であった訳で、
先ほども宮台さんは「アカデミズムは価値中立的だ」とおっしゃったが、
アカデミズムの実態を知れば知る程、
アカデミズムは価値中立ではないと、私は思うようになった。
原子学工学科という所は、原子力発電をやろうとする牙城、
そこで私は原子力を止めさせようとした訳で、
教員達と毎日のように論争をした。
今私が言うのもおかしいが、大抵私が勝った。
そうすると、彼らが何と言ったかと言うと、
「自分には妻もいるし、子もいる」と言った。
神保氏:原子力を止めたら食べられなくなってしまうという事。
小出氏:そうです。
要するに、生活があるという事。
私と一緒に女川原発に反対していた人は、もちろん原子学工学科の中にも当時沢山いた、
大学闘争があった時代たったため。
その中で大変親しい2つ年上の友人は、
「生活を言い訳にするようなやりたくない」と言って、
どうすればいいのか、と考えた挙句、捨てるものが無くなればいい、
要するに、アカデミズムにしがみついていなければいい、と、
原子学工学科の大学院を辞め、とび職になった。
捨てるものを無くした上で、彼は女川原発の反対運動を続け、
今でもその中心メンバーになっている。
彼がそういう選択をした時、私はその選択をしない、と言った。
原子力を進めるアカデミズムの世界が現に存在に、
そういう世界の中で、原子力を反対する人間は必要だ、と思い、
私はこの場に残る、その代わり、生活を言い訳に絶対しない、
と彼に約束をし、それで私はこの場に残っている。
神保氏:小出先生はその後も原子力を研究し続けた訳だが、
原子力を止めるために、原子力を知らないと有効な反対も出来ないため、
反対する目的でその後も研究をし続けたとという理解でいいのか。
小出氏:そうです。
神保氏:今同僚の方の話や毎日論争をしたという話も出たが、
結局は原子力を推進する学問体系の中に、
小出先生は反対をするために居る、というと、
例えは卑近だが、人間関係や先生との関係が難しくなったのでは、
と想像してしまうが、
原発反対派の小出というのがうちの研究室にいる、という状態になり、
それは、どのような状態だったのか。
小出氏:大学闘争の時代だったため、
学生は否が応でも自分が学ぼうとする学問が何なのか、
という事を考えざるを得なかったし、
教員側も、日常的に学生から論争を挑まれ、
それを受け止めざると得なかった。
だが、大抵は、生活があるという事に逃げ込み、
原子力を推進するために旗を振る人が殆どだった。
私はたぶん、原子学工学科の教員の中では、随分嫌われていたと思う。
それでも、私を自分の研究室に迎えようという教授も居た。
捨てる神もいれば拾う神もいるというような状況で、
結局大学院まで学問の道を進む事が出来た。
宮台氏:生活があると言った先生方の事について伺いたい。
原子力発電に関する今日のインターネットの情報を見ると、
妥当性や合理性に関する議論は殆どなく、
まず陣営の帰属をし、誹謗中傷合戦になるケースが大半。
特に田中角栄時代の電源三法以降の
地域振興とセットになった原発政策の問題で、
現地の人にとって、原発を誘致するかしないかという生活の問題になる。
そうすると原発の妥当性・合理性の問題というより、
生活の問題が前面に出て来る。
特に田中角栄氏は、道路さえ引けないような過疎地に原発を置く、
そうすると地域が栄える、と発言している。
地元の人が、そういう政策的誘導にある種流されていくのは解るが、
どうしてアカデミズムの中心で真理性を追いかける、
当時原子力物理や核物理は僕に言わせると一番頭の良い人が行く場所だった、
最も真理性に真摯に立ち向かうはずの人であるように思うが、
どうして、そういう人達が合理性・妥当性ではなく、
生活の事を言って恥じないのか、という事がよく解らない。
小出氏:それは、私に問われても、私も解らない。
その人達に問うて下さい。
神保氏:逆に言うと小出先生のポジショニングを
原子力村の中でするというう事は、
非常に困難だったと推察するが、どうだったのか。
小出氏:原子力とは国家の根本をなす政策。
私は原子力は核と同じものだとずっと言っているが、
国家が、原子力=核をこれから進めるという事を根本に据えた訳である。
その周辺に、電力会社あるいは巨大産業が群がった。
またその周辺に、土建屋が群がった。
その周辺に、下請けと言うか、子会社が群がった。
その全部で、宮台さんが言ったように、
過疎の村々の生活を何とかしてやる、という形で、
正にブルドーザーで押し潰すような形で進めた。
たぶん誰が抵抗しても、何も出来ない時代だったと私は思う。
宮台さんの周辺の学者がどういう人達か、私には解らないが、
学者は聖人君子でも何でもない、
言ってみれば、ひとりひとり生活を抱え、
出世もしたい、名誉も得たい、給料も少しは良くなりたい、
殆どの人はそう思っている。
原子力をやろうとするなら、一番そういう所に近道なのは、
国家に協力する事。
宮台氏:小出先生の言う通り、
僕も実は、小出先生程ではないのしても、似たような経験があり、
僕は数理社会学で戦後5人目の東大の博士号を貰ったが、
実は本当にやりたい事は数理社会学ではなく、
若者の、特に宗教と性に関する文化の研究だった。
それは、「おまえ、そんな事をしていたら生き残れないぞ」と止められ、
数理社会学者のフリをしていた。
たまたま大学の講師になれたため、
もうやりたい事をやらせてもらうと宣言をし、フィールドワークに乗り出し、
特に90年代半ばは援助交際やオームの問題で
いろいろ発言するという事をする訳で、
そうすると当然の事ながら、学会では周辺化される。
いろいろな人間が僕に手紙で忠告をして下さった。
君のような人々の自明性を揺るがせるような研究は許されない、
人々の心の平安を乱すような研究は許されない、と。
その意味で言うと、実は原子力の絶対安全というスローガンも、
ある種、人々の自明性、当たり前性を形作っている中で、
実際に真理性・妥当性に照らし議論を詰めると、
実は危険だというのが、人々の自明性を崩すものである。
そんなもの(研究)はしてはいけない、という
ある種の正当化のロジックが働く事は、
似たような所があると想像した。
小出氏:もちろん、その通りです。
原子力に関しては「絶対安全」と国が言い続けて来た訳で、
多くの日本人は、国や東電が言っているし、事故は起きないだろう、
位にしか思わないまま、原子力を許して来たという歴史だと思う。
携わっているアカデミズムの人達も、まさか大丈夫だろう、
という位の気持ちで来たのだと思う。
神保氏:途中でそのスタンスを維持する事が困難になった、
あるいは迷いが出た事はなかったか。
流れに任せてしまえば、ある意味楽な訳で、
熊取6人組については後でお聞きしたいが、
一人では無かったと理解しているが、
それにしても全体の中では物凄い少数派で、
6人組のうち4人位はもう引退している。
今回原発事故が起きた時にも、いろいろと解らない事がある中で、
推測できる幅がかなりある訳で、
僕らは予防原則の立場で、
考え得る一番酷い状況というは何かを知る事が大事だという立場で、
小出先生に毎回話を聞いていた。
TV等は考え得る一番良い辺りの話をしていたようで、
逆にそれが疑心暗鬼を呼び、
もっとずっと酷いのではないか、と思っている人達がいて、
小出先生の話を聞いて、その辺なのね、と逆に安心するという話もある位、
半分皮肉な結果だった。
宮台氏:更に説明すると、インターネット上では、
陣営に分けた上での誹謗中傷とは別に、
一般に「安全厨」と言われている2チャンネル用語がある。
僕は原発事故の当初から、これはとても危ない可能性がある、
東電や政府の言う事を信じていたらとんでもない事になる、
というツイートを流したら、物凄く攻撃された。
不安にさせるのか、デマを流すのか、と。
後になって、安全厨の人達が流す情報の方が
逆に今「安全デマ」と言われるようなった。
そういう意味では、僕が関わっている、例えばラジオ番組なども含め、
神保さんが関わっているような一部出演したTVも含め、
実際こういう事があり、従って今はこうだから、
健康に直ちに被害があるかどうかという事ではなく、
将来どういうシナリオがあり得るのか、
例えば、ワースト・ミドル・ベスト、
どの位のシナリオの幅があり得るのかという事を言わないと、
専門的だが、ベイズ統計的な行動計画が建てられない、
と申し上げたら、これまた物凄いバッシングの嵐だった。
「やっぱり不安にさせるのかー」と。
神保氏:うち(Videonews)では小出先生がボトムを形成してくれるから、
逆に安心したと見ている人がかなりいる。
一方でTVしか見ていない人が、いきなり見ると、
そんな酷い状況なの!と言って不安を煽るなという批判は未だ来る事は来る。
連続的に見ている人達は、政府の説明が、
キャパの中のこの辺(上方)を言っている事に気付いているため、
実際はどれ位なのかは底なし沼であり、却ってあの状態だと不安になる。
再臨界は可能性はあるけど、
語弊はあるが、大した事ないと(小出先生が)言って、
皆さん救われたという事があるとか、
いろいろな話もあった。
神保氏:やはり(小出先生が)少数派である事は間違いなく、
それは、非常に困難な道のりだったのではないか。
今は、あんな事故が起きたから、いろいろなメディアが
先生先生とやって来て、コメント下さい、と言っているかもしれない。
あれだけ安全神話みたいなものが国を挙げて喧伝されている時に、
所謂ただの運動家ではなく、
専門家であるから危険だと言っているのは物凄く少数派だった訳で、
その少数派としての、ある意味では試練を、
ずっとここまで乗り越えて来れたというのは、
振り返って何だったかと思うか。
小出氏:何にも試練が無かったからだ。
神保氏:試練は無かった。
小出氏:はい。
神保氏:辛い事とか、懐柔される事とかなかったか。
小出氏:何もありません。
何か週刊誌で、「迫害され続けて来た小出達」みたいなものがあったようだが、
私は迫害など一度もされた事がない。
神保氏:失礼ながら訊いてしまうと、
先生は今の年齢でまだ助教でおられる訳で、その事をいろいろ訊かれると思うが、
それは先生が、その学問の世界で明らかに反主流の立場を取っている事と
先生から見て関係あるのかないのか、というのは、どうか。
小出氏:それは大学のポストというのは、
大学の思惑、あるいは京都大学は国立だから国の意向というのは、
もちろんあるだろうと思う。
例えが6人組と呼ばれて来た私の仲間の中には、
その人がいなければ日本だけでなく、
世界の学問が成り立たないという仕事をしていた人もいるが、
結局教授には誰もなれないという事だがら、
もちろんあると思う。
でも私は教授になりたいと思った事が、一度もない。
私は74年に原子炉実験所に来た。
その時の大学の職階は、教授・助教授・助手で、
私は助手に採用されて、ここに来た。
途中で大学の職階が、教授・準教授・助教という名前に変わり、
それで今私は助教、つまり昔の助手のままいる訳である。
ですから、37年間助手。
きっとギネスブックに申請したら、
「37年間最下層にいた教員」と言って載るのではないかと思うが、
だが私にとり、とてつもなく居心地の良い職階だと思う。
37年間、誰からも私は命令を受けた事がない。
誰にも命令をした事もない。
宮台さんは教授だから、子分もいるのかもしれないし。
神保氏:ずっとなりたくないと抵抗していて、
僕にも泣きついていたのだけれど、
最後はしょうがなしに教授になった、途端に凄い忙しくなった、確かに。
雑用とか。
小出氏:いろいろな事をやらなければいけないから大変だろうと思う。
だが、私はそういう雑用を負う責務も無く、
人を動かす責務もないため、
自分の好きな事だけをずっとやり続ける事が出来たという
とても有難い職階だと思っている。
神保氏:研究する上で、助教という立場が制約になったりはしないのか。
教授になれば、こういう予算が取れるとか何だと。
小出氏:少し研究費が多くなるという事はもちろんある。
それから、国に尻尾を振れば、もちろん研究費が来る、とか、
企業との共同研究が出来る、とかあるだろうが、
そんな事をしてまでお金を欲しいと思った事は一度もない。
神保氏:小出先生や今中先生の飯館村の調査も注目していろいろな所で使わせて頂いているが、
おふたりが、まだ熊取6人組の中で残っている、と。
その後に続く人達というのはいるのか。
例えば、反主流でも全然構わない、
そういうポジションで研究する人が必要だ、という事で、
その後の世代は控えているのか。
小出氏:6人組と呼ばれている私達の仲間というのは、
世代で言うと、4人と2人に分かれる。
上の4人というのは、60年安保世代に学生だったという人達。
自分のやろうとしているアカデミズムが
社会的にどういう意味を持っているかという事を学生時代に問われた、
という世代な訳である。
神保氏:小林圭二さん、川野真治さん、海老澤徹さん、瀬尾健さんですね。
小出氏:その4人が私の仲間であった訳だし、
今ここに残っているのは、私と今中さんのふたりだけとなった。
私と今中さんは、所謂70年代安保、それで大学闘争という世代。
学生の時に、どうしても自分がやろうとしている学問が
社会的にどういう意味を持っているかという事を問われ、
その答えを探し求めた人間だった訳で、
それがきっと6人組という集団を作ったと、私は思う。
でも、70年安保で終わってしまった訳で、
80年安保なんて無かったし、90年安保も無かった。
もう自動延長でずっと来ている。
自分の学問がどういう意味かという事を問われないまま、
静かな大学の中で学問をして行く、
そういう世代がずっと今日まで続いているのだと、私は思う。
ですから、ひたすら社会的な問題は考えない、
自分のやっている学問をやっているだけという人が多いのだと思う。
この実験所にも、80人位の教員がいて、
順番に定年でいなくなって、新しい人が入ってくる訳だが、
新しく入って来る人の中で、社会的な問題を考えるという人は
やはりあまりいなかったように思う。
でも、ゼロだったかというと、そうではない。
私達がやっている事に共感をし、
仲間になろうとしてくれた人も何人かいた。
だが、私は積極的にその人達を誘わなかった。
神保氏:それは?
小出氏:要するに、6人組という名前はどうしてそんな名前になったかと言うと、
当時中国の「4人組」というものがあって・・・
宮台氏:文化大革命を指導した?
小出氏:そうです。
犯罪者として、後ろ指を指されたグループがいた訳である。
神保氏:そういう汚名なのですね、もともと。
熊取6人組というのは。
ヒーロー物語のように、MBSの(ドキュメンタリー)を見たから。
小出氏:そうです。
ですから、6人組というのは、こういう社会の中では、
要するに、犯罪集団だというような意味をこめて、
きっと誰かが私達を6人組と呼んだ。
別に私達が自分たちで6人組と言った訳ではない。
呼ばれたから、私はそうか、結構だと思って、
自分で6人組という言葉を使うようになった。
周りから見れば、私達のやっている事は、国家に楯突いている訳であり、
面白くないと思っている人は多いと思う。
特にアカデミズムの世界の中で言えば、
国家の方棒を担いで、原子力を進めようとする人達が多い訳であるから、
そこで原子力に抵抗するような事をするというのは、
所謂アカデミズムの世界の中で安穏と生きて行こうとする限りは
その道を閉ざす事になる。
ですから、私は、私達の仲間に入ってくれようとした若い人達を、
誘えなかった。
そういうような立場にさせてしまうという事で。
神保氏:むしろ止めたという事か。
止めておけ、とう感じか。
小出氏:止めておけ、とは言わなかったが、
積極的に一緒にやろうというふうに誘わなかった。
そのため、そういう人達は、結局原子炉実験所から去り、
別の所で職を得て、それなりの活躍を今でもしている人達がいる。
誘わなかった、
そして6人組という初めに決意をして集まった
メンバーだけでやって来て、
4には既に・・・瀬尾さんはお亡くなりになったし、
3人はもう定年でいなくなって、
既に2人になった。
私にしてもあと数年で定年になって辞めるし、今中さんも同様。
私と今中さんがいなくなった時には、所謂大学という世界で、
原子力に抗議を続けるという、抵抗を続けるという教員はいなくなるのかな、と思う。
神保氏:これは、京大に限らず。
小出氏:物理学や地震学をやっている人で、原子力に抵抗している人はいる。
だが、原子力という世界の中で、
原子力に抵抗する人間はたぶんいなくなるだろうと思う。
神保氏:困りますね、専門家がいなくなると。
宮台氏:今の先生のお話で非常に印象深いのは、
僕自身は71年から73年まで中学高校紛争に関わっており、
その頃にいろいろな本を読んだという事もあって、
少し口はばったい言い方になるが、
「美学」という事について学ぶ事が出来た。
美と美学は違って、美は人が見て美しい、褒められるものだが、
美学は人が見てみっともなかったり、
場合によっては蔑まれたりするようなものだが、
しかし美学は、行動原理としてその人を貫徹しているもの。
先生の話を伺っていると、美学の筋を凄く感じると同時に、
やはり美学を育んでくれた時代がある時代にあったのかという気がして、
逆にそういうものが今までは無くなってきたが、
3.11以降は少し違うのかな、という気がしている。
先生が原子力の発電の合理性の問題と合わせて、
ライフスタイルの問題をずっと書いて来ている。
我々の生活はどこかおかしい、と、
今までの3分の1のエネルギーでもっと幸せに生きる事が出来るはずだ、と。
実はこういう議論を特に北欧やゲンルマン系の人達は良くする。
実際エネルギーを使わない家だけれども、
日本の家よりも遥かに快適性の高い家とはどういうものか、
一生懸命民間のメーカーも研究するが、
僕たちは、エネルギーの消費量と
何か、幸せか何かよく解らないが、良い感じというものが並行すると思い込んでいる、
それがおかしいと書いている。
そこも、行動原理としての美学という事、
その本筋さえ弁えていれば、後は枝葉だ、という発想法が貫徹を感じる。
神保氏:小出さんの本を読んでいると、
途中からスローライフの本を読んでいたのかな、という気がして来る。
原発の話のはずが、最後はそういう感じになる。
ただ、僕は、そういう中にあっても、
国立大学で国家の政策に反対している人間を
ちゃんと包摂する京都大学の懐の広さという、
そんな話も小出さんがされているのは存じ上げている。
時間があまりないので、どうしても押さえたいものが2点あるので
(それについて伺いたい)。
ひとつは、本質的な話を小出先生に訊きたい。
要するに、原子力の本質的なもの、原子力の問題とは何か、
という所について、先生の意見を伺いたい。
原子力発電でもいいが、
人間がそのような形で原子力というものの力を手に入れた、
という事の意味を、我々はもう一回考えないといけないのではないかと、
今回の事故で私も思ったし、思った人が多いのではないかと思う。
小出先生にとって原子力というものの本質とは、
あるいは原子力の問題とは。
宮台氏:補足的な質問させて頂くと、
小出先生もいろいろな所でおっしゃっている
原子力発電とは結局発熱装置が違うだけで、蒸気機関であると。
火力だったり、石油・石炭ではなく、
あるいは太陽熱で発電する場合もあるが、
要するにタービンを回すための蒸気を原子力の熱で取っているだけ。
単なる蒸気機関。
その事を考えると、原爆が日本に落ちて、
その後5年以内に水爆実験が米ソで始まり、
フランスとかスイスとか各地がそれを追い掛け、
兵器としての水爆を持つという宣言をする。
全く同じ時代に、蒸気機関を原子力で温めようという話が出て来るというのは、
科学的な合理性であるとはちょっと思えない、
別の事情であるように感じる。
神保氏:核のオプションの話も最後に行かなければいけないと思っていたが、
ある種、科学的に考えた時に、そこに悪魔的ファウスト的取引と言われるように、
膨大なエネルギーの代わりに何かを与えるいるのではないか、
という見方も指摘されているが、どう考えるか。
小出氏:ファウスト的取引と言う時には、
要するに膨大な危険はある、という事を一方に置いて、
膨大なメリットがるという事を一方に置いている。
でも、私は膨大なメリットすらないと言っている。
もともと私は原子力に夢を持った人間で、
未来のエネルギー源になると思い込んだ人間だが、
原子力で使おうとする燃料、ウランというのは、地球上には殆ど無い。
石油に比べても、数分の1しか資源が無い、
石炭に比べたら、数十分の1しか無い、という
そんな資源だった訳だから、もともとメリットなど無い。
宮台氏:長く使っても40年とか言いますよね。
小出氏:そうです。
今の世界のエネルギーを全て原子力で賄おうと思ったら、
今宮台さんがおっしゃったように40年もたないんじゃないか、
と私は思う位、とても貧弱なものだった。
そんなものを、膨大な危険と計りを掛けて、
取引なんかする必要もない、というそれ程バカげたものだった、
と私は思う。
神保氏:原子力にかけた夢というのは、見当違いだったという事になる訳ですね。
本質的には。
小出氏:そうです。
神保氏:ただ、今福島で一生懸命水を掛けているが、
僕らなど素人的表現で申し訳ないが、
鉄なんかはどんなに熱くなっても、水を掛けておけば冷える。
再臨界や崩壊熱、ひとつを取っても、
水を漬けているのに、ずっと内部から熱を出し続けるなんて、
これは凄いな、というように思ってしまう。
何か知らないけど、金属をただ置いておくだけで、
内部からどんどん熱が出て来る、と。
そういう素人考えも危ないと思うが、
やはり原子力とは何か特別なものなのかどうかという所を、
是非科学者から説明を聞きたい。
小出氏:それはもう単純。
原子力とは、ウランの核分裂反応を起こさせてエネルギーを取ろうとするものであり、
核分裂反応で出来るものとは、核分裂生成物という「死の灰」。
それを生み出さなければ、エネルギー自身を取りだす事も出来ない、
という、そういうものの訳であり、
核分裂生成物とは、圧倒的な危険物である。
どんな意味で言っても危険物。
火力発電所を動かしたら、CO2が出るからとんでもない、
というふうな事を、皆さん言っている訳だが、
冗談を言わないでくれ、と私は思う。
火力発電所で出すものは、せいぜいCO2。
CO2とは、この地球という惑星にとって絶対に必要なものである。
生命系を維持するために。
それがあたかも、物凄い悪者であるかのように言いながら、
原子力が生み出す核分裂生成物については、
一切何も言わないで、地球環境に優しい、エコだ、クリーンだ、
という説明がまかり通るというのは、
とてつもない宣伝というか、嘘というか、まかり通っていると思う。
その核分裂生成物というものの危険性がとてつもなく大き過ぎて、
下手をすれば今回の福島の事故ような事になってしまう。
初めに聞いて頂いたつもりだが、その事は皆初めから知っていた。
だから、都会には建てられない、過疎地に押し付けるという事をやった。
そのツケを今、日本というこの国で払っているという事である。
神保氏:結局60年代は夢を見てしまったかもしれないが、
小出先生もそうだったが、
その夢は早い段階で夢であるという事が解ってしまった。
メリットも妖しい、デメリットはどんどん大きい事が解って来る、
しかもどんどん滓が出るから、
日本は未だにトイレのない町の状態で、相変わらず糞詰まり状態である。
そして、福島は、使用済みプールに沢山置いておくから、
爆発したらそれも飛び散ってしまう、という余計な事まで問題になっている。
あらゆる問題がある。
しかも、コストも実は安いと言っていたのも、
補助金であるとか、発電部分のみのコストの話しかしておらず、
今回で安全基準が上がったら、もっとコストが上がる。
宮台氏:CO2も同じ。
採掘・生成・濃縮・建設、そして半永久的に保存するとしたら、
冷却のためにエネルギーを使う。
神保氏:何か知らないけれども、
今までメリットと言われて来たものは、全部殆ど崩壊しており、
デメリットは相変わらずどんどん増え続ける、という事になると、
一体何故我々は、しかも日本は地震国で津波があり、
狭くて逃げ場がないというような、
どう考えても、子供が考えても、誰がこんなものを推進して来たんだ、
というような条件を簡単に言えてしまうような状態になっているのに、
でも日本はここまで推進して来たばかりか、
今この瞬間も、福島は止まっているが、他は全部動いている。
浜岡も含め、全部フル稼働している。
そこで、最後は、戦って来た先生だから是非訊きたいのだが、
その本質にあったものは何だったのか、
何故日本は、冷静に考えたら不合理な選択をし続けて来たのか、
という事は、小出先生の中でどのように説明がなされているのか。
小出氏:60年代から70年代初めにかけて、
世界中が原子力に夢を持った、と先ほど私は言った。
それは、だぶんそうだったと思う。
だが、例えば、米国で言うと、その夢から覚めたのは74年。
それまで、物凄い勢いで原発を作り、運転させる、
そして、建設する、計画する、というのはウナギ登りで上がって来たが、
74年をピークにして、それ以降どんどんキャンセルという事になった。
計画中のものはもちろんキャンセルされ、
建設中のものすらキャンセルされる、という時代に74年にもう入っている。
79年に米国でスリーマイル島での事故が起きる訳で、
それからまだどんどん減って行くという事で、
もう米国では30年にもわたって1機も新規立地もない、
そういう状態になっている。
米国では、原子力産業が崩壊してしまっている。
ヨーロッパも同様。
ヨーロッパが原子力に見切りをつけたのは、77年か78年。
ウナギ登りに上がって来た運転中・建設中・計画中(の原発)が、
次々とキャンセルされるという時代に入った。
日本だけは、そうならなかった。
神保氏:アメリカ、ヨーロッパでは、今みたいな事が解ったから、
という事ですね。
合理的ではないと。
小出氏:そうです。
メリットとして考えたものは、もうない、
デメリットはとてつもなく大きいという事に気が付いて、
撤退を始めているという訳である。
日本だけはそうならなかったという理由は、
たぶん日本という国の長い歴史にあり、
お上意識というか、お上がこうだと決めてしまえば、
それに殆どの人が付き従って行くという歴史の中で、
日本の国家というものが、どうしても原子力をやると言い続けた、
というのが一番の理由だと、私は思う。
その他に、電力会社の儲けの話であるとか、
三菱・日立・東芝という巨大原子力産業の儲けであるとか、
そういう事はあったが、
何よりも国家としての思惑という事だと思う。
神保氏:国家がとにかく強い意志で推進して、
他はそれに付いて行ったと。
その国家の意思という所の背後にあるものを
是非先生に何が見えるか知りたい。
小出氏:去年の秋だったと思うが、
NHKが『核を求めた日本』という番組を流した。
そこで描かれた事は、日本というこの国は平和利用だと言いながら、
原子力発電を続ける事で、
核兵器を作る能力を手に入れたい、と。
神保氏:核オプションですね。
小出氏:はい。
初めから、そうであった、という事で、
日本は先の戦争で負け、敗戦国として2等国になった訳であり、
いつもまでも2等国でいたくない、と言って、
同じ敗戦国であるドイツに対して、核兵器を作らないか、
と話を持ちかけた(事を暴露した)、そういう番組だった。
政治あるいは外交の中枢にいる人達が、
そう考えるのはムリもない事だと、私は思う。
国連常任理事国というものが今はある。
米国、ロシア、イギリス、フランス、中国。
その5カ国が何故常任理事国であるかと言えば、
先の戦争で勝ったからという事があるけれども、
もうひとつは、核兵器保有国だという事である。
核兵器を持っているという事が、現在の世界を支配するための一番基本的な条件だ、
という事がある訳で、日本という国は2等国でいたくない、
何としても1等国になるためには、いつでも核が持てるという条件を懐に入れたい、
という事が必ずあったと思う。
去年の秋にNHKがそれ(番組)を流した訳だが、
もともとずっと政府の外交文書にそれがきちっと書かれていた。
核兵器の材料となるプルトニウムを手に入れる、
そして、いつでもミサイルに転用出来るロケット技術も
懐に入れておく事が必要だという事は、
政府の文書のあちこちに書いてある。
神保氏:宇宙開発をやって、原発をやるという事。
小出氏:そうです。
それを日本という国は、国家として進めて来たという事だと思う。
神保氏:そこは宮台さんはどう思うか。
今NHKとかの企画で歴史的に見るとそういうものがあったという事が
明らかになったが、例えば、今も毎年予算計上されているが、
こういう話が国会でも何でも公然と語られる事は、実際にはない。
一体誰がそんな事を思い、誰がやっているのか、という事になると、
実は最初にそれがあったという事は、例えば正力松太郎さんなども含め、
あったかもしれないけれども、
今でも本当にそれで進んでいるのか、
それは皆が思っている幻想であり、亡霊のような存在で、
実は誰もそんな事は言っていないが、きっとあるに違いないと思い、
皆があると思ったものはなくてもあるという事になって言っているのか。
宮台氏:最初は先ほど歴史的な経緯を話したように、
簡単に言えば、核兵器の技術、兵器の技術としての原子力であった。
それを、平和利用という事で原子力発電にするという中には、
実は当時はまだ再処理、プルトニウムの抽出は現実的と思われた時代もあったので、
やはり軍事の便益と表裏一体だったと思う。
ただ日本の場合は、そもそも例えば、95年に「もんじゅ」が停止し、
しかし政策的には全量再処理、
そのためにはプルサーマルを回さないと全く意味がない、
それにも関らず16年間停止している、
そんなものは恐らく兵器転用のために維持するという話では説明が付かず、
妥当性・合理性でコミュニケイションが回らず、
それこそ、国策なるものがあると、まずそこに依存し、
自分のメシなのかポジションなのかを気にするという事がある。
国策のレベルで言うと、
恐らくもはや、国策的なものが最終目標となり権益が張り付いていると言うより、
実は国策的目標は風化してしまっており、
政治家の間である種のかつての自明性みたいなものとしてあり、
現に動いているものは権益の集団であり、
何かの時には石原慎太郎さんみたいなマチズモ的な人に
「原発が無くては日本が一人前になれるはずがない」と言わせる
というふうに、どうも日本がなっているという気がする。
元の方に、小出先生がおっしゃったように、
妥当性・合理性について主張し、コミュニケイションする役割を負った人間が、
「しかし私にも家族がいる」という話になってしまうという、
その辺を分析するのは社会学者の重要な役目だと思うが、
どうもそういう事が物凄くある気がする。
そもそも政治の世界では、IAEA図式と、レジームと言うが、
核を持つ戦勝国の人達が中心となってIAEAという枠組みを作り、
その主要監視国は、ドイツと日本、
ドイツはNATOの中に組み込まれ、
今IAEAの存在目的は事実上日本の監視である。
神保氏:北朝鮮とか別にして。
宮台氏:北朝鮮は、所詮長く続かないので。
そうすると、結局政治家達のもともと出発点として持っていた
自明性もIAEA図式というのを考えると、全く非現実的で意味がない。
それこそ、アメリカと一戦を構える覚悟があって、初めて可能な核武装である。
そういう覚悟がある政治家は実際いないので、まあ少しいるが、
殆どいないので、そうすると、政治の世界でも実は核武装がいざとなったら出来る、
例えばプルトニウムのストックがあり、ロケット技術があったら、
核ミサイルは半年以内、場合によっては3カ月あれば作れる、
みたいな論文が論壇誌に載っていたりする。
実はそれは幻想で、そんな事をしたら、日本はそれこそ、
国際連盟を松岡大使が席を蹴って脱退したような事がないと、あり得ない。
神保氏:先生は約束の時間になるので、全部話せないと思うが、
先生の本を読んだり、話を伺って感じた事のひとつは、
やはり、今宮台さんが説明したように、
核オプションといった亡霊みたいなものを如何に払拭するかがないと、
今ここから一歩前に進む事が難しいのではないか(と思う)。
亡霊なら亡霊である、
あるいは本当に主張している人が現職の政治家でいるなら
それを堂々と国会で、核は必要だ、と言ってくれれば議論になるが、
誰も言っていないではないか。
それともうひとつ、また改めて必要であればもう一回やりたいと思うが、
先生の話の中で非常に本質だと思ったのは、
同時にもうひとつ我々が考えなければならない事は、
電気を無尽蔵に使って良いという前提でここまでやって来てしまったという所が、
先生の本が読んで行くとスローライフ的になって行く所だが、
ここをもう一回見直しなくして、今回の話というのは、
この原発事故を受けて、さあ次にどうするのかという問題は決められないのか、
と僕自身凄く思った。
先生、お時間なので、最後に1点だけ、
今日訴えたかったが、聞きそびれてしまった事があれば。
小出氏:私は、さっきも聞いて頂いたが、
1970年に原子力はダメだと思い、何とか止めさせようと思った人間である。
既に40年経った。
いつかこんな事故が起きると、私は警告をして来た訳だが、
とうとう起きてしまった。
何とか起きないように、起きる前に原子力を止めたいと願い続けて来たが、
私の願いは届かなかった。
こんな事になってしまい、何とも言葉がない、
私は今は言葉がありません。
私は、こういう事故が現在進行中であるにも関わらず、
さっき宮台さんがおっしゃったように、
日本でまだ原子力発電所が実際に動いている。
何故動いているかと言うと、夏になって停電したら嫌だから、と、
電気は絶対必要だ、という人が、どうも日本人には多いという事らしい。
その事に関しては、私はデータを付けて既に発言をしているが、
今現在即刻原子力発電所を止めたとしても、
日本の電力供給に何の支障もない。
ですから、止めるのが良いと私は思うが、
私は実はその事もどうでも良い。
電気が足りようが足りなかろうが、原子力なんてものはやってはいけない、
と私は思っている。
そういうふうに日本人の人達が思えないという事に、
私はかなりの絶望感を持って現実に向き合っている、
そういう状態です。
神保氏:どうも先生、また実験の方に戻らないといけないという事なので。
復興会議で名誉座長になっている梅原猛さんが最初に実は、
原発の問題も復興の中で議論をしなくてはダメだ、と。
どのように復興するか、という事に原発の問題というのも、文化の問題と言われた、
というのだけれども、密接に関係している事だからと言ったが、
結局その発言は殆ど報道されず、
どうも復興会議を見ているとと原発は切り分けするというような感じで、
仮設住宅はどうのとかそういう話に行ってしまっているという所を見ても、
メディアもその事を(報道しないのは)問題だと思う。
今先生がおっしゃった事と殆ど同じような話だった。
原子力というものは、そもそも文化の問題として、
我々は考えないといけない所に来ている、という話だった。
それも含め、我々も今日は課題を頂いと思うので、
先生、またちょっと願わくばそういう事がない方がいいが、
原子炉の状況が、意味不明の新しい核種が出て来たり、
なかなか情報が出ないが出てきたら、
電話になるかもしれないが、また是非話を伺わせて下さい。
次回があったら、電力のスローライフの話を。
皆さんに是非小出先生の本を読む事をお勧めするが、
根底にあるもう少し大きな思想、考え方を知った上で、
先生の原子力に関する考えを聞くと、
もう少しなるほどと感じるのではないかと思う。
宮台さん、何かありますか。
宮台氏:先生の時間がもったいないので、
いずれまた話をさせて頂きたいと思う。
ありがとうございました。
神保氏:どうもありがとうございました。
小出氏:ありがとうございました。
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